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世界の幹細胞(関連)論文紹介


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IGF-II : 記憶力がよくなる分子!?

論文紹介著者

嵯峨 伊佐子(博士課程 3年)

嵯峨 伊佐子(博士課程 3年)
GCOE RA
遺伝子制御研究部門

第一著者名・掲載雑誌・号・掲載年月

Dillon Y. Chen/Nature, VOL469, Page491-497, 27 Jan 2011

文献の英文表記:著者名・論文の表題・雑誌名・巻・号・ページ・発行年(西暦)

Chen DY, Stern SA, Garcia-Osta A, Saunier-Rebori B, Pollonini G, Bambah-Mukku D, Blitzer RD, Alberini CM. A critical role for IGF-II in memory consolidation and enhancement. Nature. 469:491-7,2011

論文解説

あらゆる分野での科学の進歩によって、小さいころ読んだSFの世界が、少し形を変えながらも現実に近づく様を、私たちは日々目の当たりにしています。"飲んだら頭のよくなる薬"、あるはずがなかった創造の産物も、そんな"現実"の一つになっていくのかもしれません。

記憶力が良くなればいいという願いはもちろん、急速に高齢化社会が進む日本では、認知機能低下に対する治療はむしろ急務であり、記憶のメカニズムの解明は切迫した研究課題の一つです。しかし、記憶の維持に関わる分子メカニズムは、未だにほとんどわかっていません。今回紹介する論文では、IGF-IIという分子が、記憶の固定と強化に重要な役割を果たしていると述べています。

IGF-IIは、インスリン様成長因子といわれ、細胞分裂を調整するポリペプチドの一つです。もともとは、様々な体細胞の成長や発生に関わりますが、脳、特に学習と記憶の場である海馬に高発現しており、年齢ともに減少することが知られています。

筆者らはまず、ラットに抑制性回避学習を行わせ、ラットの海馬でのIGF-IIの発現を評価しました。ラットはもともと暗いところを好む動物ですが、箱の中の暗いほうに行くと足に電気ショックがはしる装置を作り、あらかじめその刺激を与えておきます。そして、同じラットがそのことを覚えていて、暗いほうへ行くのをためらう時間を測定します。つまり、待ち時間が長いほうが以前の痛かった記憶と暗い場所での出来事を関連付けて覚えていることを意味します。この実験で、ラット海馬でのIGF-IIのメッセンジャーRNA(※1)とタンパクのレベルが、トレーニング後20-36時間の間増加していることを発見しました。しかし、トレーニングの3日後には既にもとのレベルに戻っているので、この発現は一時的なものであることがわかります。

次に、ラットの両側海馬にIGF-IIに対するアンチセンスオリゴヌクレオチド(※2)を投与することでIGF-IIの働きを抑えると、記憶の保持が著しく損なわれました。この障害は、組換えIGF-IIを同時に投与することで打ち消されるため、海馬でのIGF-IIの発現が、記憶に深くかかわっているといえます。
それでは、トレーニング後のラットの海馬に、外因性のIGF-IIを注射したらどうなるでしょうか?すると予想通り、記憶保持が強化され、忘却が防止されました。さらにおもしろいことには、IGF-IIの投与時期が記憶固定の感受性期間内でないと効果はありませんでしたが、ひとたび安定化した記憶は、長期間・たとえばトレーニングの3週間後にも保持されていました。

以上の結果は、IGF-IIが、まだ新しく不安定な状態の記憶が安定化し長期記憶となるプロセスで、重要な役割を果たしていることを示唆しています。

では、IGF-IIによる記憶強化には、具体的にどのような分子メカニズムが関わっているのでしょうか?IGF-II は、IGF-I 受容体、IGF- II 受容体両方に結合し、その下流のシグナル伝達経路を動かします。筆者らは、それぞれの受容体に特異的な阻害剤、受容体抗体を用いることで、記憶の増強に関わるのは IGF-II 受容体ということを明らかにしました。さらに、タンパク質合成阻害剤アニソマイシンをIGF-IIと同時に投与することで、IGF-II による記憶の増強が阻害されたことから、新規のタンパク質合成の必要性を示しています。

記憶の強化には、ニューロン同士がシナプスで強く結びつくことが重要だといわれています。前シナプス細胞から放出された神経伝達物質が、シナプス間隙を介して後シナプスの受容体に到達することで、ニューロン間の伝達が行われますが、この伝達がより速やかに行われることで記憶が保持されます。そこで筆者らは、シナプス部位における転写メカニズムに注目しました。IGF-Ⅱの刺激によって、細胞骨格関連タンパク(Arc)による樹状突起の形態変化、AMPA 受容体サブユニットGluR1(GRlA1)の発現レベルの上昇、さらにAMPA 受容体の膜輸送と樹状突起への発現に関与しているGSK3βの活性化などといった、シナプス伝達強化に関わる変化が引き起こされることを突き止めています。

今回、IGF-IIが記憶の増強に深くかかわっていることが示されました。記憶の分子メカニズムは、まだまだ分からないことが多いとはいえ、その一端が解明されたことは大きな進歩といえるでしょう。今後さらなる解明がすすみ、認知機能低下に対する治療、さらには記憶力の向上というヒトの能力の拡大へ向けて、期待が膨らみます。

用語解説

  • ※1  メッセンジャーRNA
    タンパク質合成に必要な塩基配列情報をもつリボヌクレオチド。DNAに保持されている遺伝情報は、転写されてメッセンジャーRNAの形となり、その塩基配列情報が対応するアミノ酸配列に翻訳されてタンパク質が合成される。
  • ※2  アンチセンスオリゴヌクレオチド
    標的遺伝子のメッセンジャーRNAに相補的な配列を持つオリゴヌクレオチド。これを細胞外から与えることで、標的遺伝子の発現を阻害する。

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