慶應義塾大学 グローバルCOEプログラム 幹細胞医学のための教育研究拠点
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世界の幹細胞(関連)論文紹介


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生後の海馬の神経新生は、記憶(恐怖連合記憶)の情報処理(海馬依存的な期間)を制御する

論文紹介著者

江見 恭一(博士課程 4年)

江見 恭一(博士課程 4年)
GCOE RA
生理学1

第一著者名・掲載雑誌・号・掲載年月

Kitamura T/Cell.139, 814-827, 2009

文献の英文表記:著者名・論文の表題・雑誌名・巻・号・ページ・発行年(西暦)

Kitamura T., Saitoh Y., Takashima N., Murayama A., Niibori Y., Ageta H., Sekiguchi M., Sugiyama H., & Inokuchi K. Adult neurogenesis modulates the hippocampus-dependent period of associative fear memory. Cell.139, 814-827 ,2009

論文解説

記念すべき論文紹介の初回ですが、「神経新生による記憶制御の可能性」に関する論文を紹介致します。「世界の・・」と冠ながら、今回は日本からの研究報告で、富山大学の井ノ口馨教授らの2009年11月に科学誌Cellに掲載された文献をご紹介させて頂きます。

ご存知の方も多いと思いますが、記憶は、脳の「海馬※1」と呼ばれる部分に一旦保存され、整理された後、時間をかけて大脳皮質へ移り長期の記憶となることがわかっています。しかし、詳しいメカニズムはまだ解明されていません。一方、「海馬」内では、大人であっても新しい神経細胞が生産(神経新生※2)され続けていることが知られ、この神経新生と学習などによる記憶獲得との関係は既に報告されています。しかしながら、この獲得された記憶の保持(神経回路)と新生した神経細胞との関係は、未だわかっていませんでした。(新しく生まれた細胞が既存の記憶情報や回路を混乱させるのではないだろうか・・?)

井ノ口教授らは、正常な動物では記憶は海馬から大脳新皮質※3に移動(海馬の記憶は消去)していくだろうが、神経新生を低下させるとどうなるのか?記憶はまだ海馬に残り続けている(消去されない)のかもしれない?と考え、創意工夫された実験をされました。

実験は、(1)神経新生が活発なマウス(豊富環境で飼育する※4)、(2)神経新生を抑制したマウス(頭部へX線照射したマウスや遺伝子改変マウスを作成)と(3)正常なマウス(コントロール)を準備し、電気ショックによる「恐怖による体のすくみ」を繰り返し体験学習させる(恐怖条件付け学習※5)装置にて、マウスの恐怖記憶(海馬依存的な記憶)を測定しました。

その結果、回転車のある環境で生育した神経新生が活発なマウス(1)では、7日経過後の「恐怖記憶」が、コントロールマウス(3)に比べ、より保持されない(消去されやすい)、また、神経新生を抑制したマウス(2)では、28日経過後の「恐怖記憶」が、コントロールマウス(1)に比べ、より保持される(消去されにくい)ということがわかりました。
結論として、「海馬の神経新生は、記憶の獲得のみならず、記憶(長期)の消去に関連している」という全く新しいデータ・仮説が公表されました。

この結果を、勝手な無理やりな拡大解釈した経験談へ押し込めてみると「ラボで辛い事があった日、おいしいものを食べたり飲んだり話したりとパーッとすると翌日は気持ちを切替できて新たに実験ができる」とか「その昔の嫌な思い出なのだけど、何か夢中に打ち込んでいたため、その嫌な記憶の詳細は消えている」というように「楽しい事に興じ、嫌な記憶を消す」的な、知らず知らずに「海馬の神経新生」促進効果を日常生活で活用していたのかもしれません。(汗汗)

以前、この論文の元データを講演で拝聴した際、井ノ口教授は「この神経新生が制御できれば、恐怖記憶を制御できる可能性があり、PTSD ※6などの精神疾患の治療に役立つかもしれない」と話されていました。

神経新生の制御などは、当GCOEからの研究成果が貢献できる分野ではないかと思います・・。まだまだこれからの話ですが、いつか、我々の成果も、そのような治療薬や治療方法への開発へと、何らかの形でとつながっていくのではないかと思います。

用語解説

  • ※1 海馬
    脳の記憶や空間学習能力に関わる重要な器官。海馬の萎縮は、アルツハイマー病やその他の精神神経疾患に関与していると考えられている。
  • ※2 神経新生
    これまで、大人の脳神経細胞は壊れる一方で、神経細胞は増えることはないと考えられていたが、海馬などには神経幹細胞が存在しており、終生、神経新生を行い、また、加齢により、その程度が減少することが報告されている。
  • ※3 大脳新皮質
    大脳の部位で、表面を占める皮質構造のうち進化的に新しい部分。高度な知的活動をつかさどる。高等生物は大きいといわれる。海馬などで処理された短期記憶は、大脳新皮質(前頭葉など)に移動し、長期間保持されるようになる(長期記憶)とされている。
  • ※4 豊富環境で飼育する (enrich environment)
    マウス飼育ケージ内に、好奇心を煽るいろんな形状の物体や回転車(運動おもちゃ)を入れ飼育する。通常ケージで飼育されたマウスに対し、刺激が豊富な環境により、海馬の神経細胞の新生が活発化すると報告されている。
  • ※5 恐怖条件付け学習
    海馬依存的な学習。マウスを大きな防音箱の中に入れ、足元へ軽い電気ショックを与えると、マウスは「すくみ」反応を示す(=恐怖を学習体験) これを繰り返し学習させると、電気ショックがなくとも、箱に入れただけ(場所・目印などの情報と組み合わせ判断)で「すくみ」を示すようになる。このような条件が付いた学習成立後に、数日経過した後の「すくみ反応」を測定することで、恐怖記憶を計測・判定する。
  • ※6 PTSD:心的外傷後ストレス障害
    ある出来事(死にかけたり、重症を負うなど)の後、衝撃的な心理的傷が原因で様々なストレス障害を引き起こす。戦争、犯罪(テロ、監禁、虐待、強姦など)、自然災害、交通事故など様々な原因によって生じる。

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