2021/07/28
がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病と並ぶ5大疾病の一つ「精神疾患」。近年、医療機関を受診する患者の数は増え続けており、昨今はCOVID-19の影響によるこころの不調も深刻な問題となっています。精神疾患のメカニズムはどこまで解明されているのか、診断や治療はどう変わっていくのか。慶應義塾大学医学部 精神・神経科学教室の三村將教授に聞きました。
病気や障害、早死によって失われた年数、いわば疾病の負荷を表すDALY(Disability Adjusted Life Year:障害調整生命年)。日本では、うつ病や認知症、統合失調症などの精神疾患が上位に入っており、さらにWHOは、2030年にうつ病が心疾患や交通事故を抑えて、健康面の負担を強いる第1位の疾患になると予想しています。
「DALYの指標からも、精神疾患が日常生活に及ぼすダメージが非常に大きいことがわかります。精神疾患やメンタルヘルスの不調はいまや、日本のみならず、世界中の人にとって、極めて重要な問題です。いかに“長く生きるか”ではなく、いかに“活き活きと長く生きるか”が問われている時代といえるでしょう。」
近年は、精神疾患やメンタルヘルスに対する世の中の見方も変わってきました。
「少し前まで、精神疾患やその治療に対しては、強い偏見の目が向けられていましたが、最近では、こころの健康や精神的なウェルビーイングというものがずいぶんポピュラーな話題になってきていると感じます。私たち精神・神経科学教室でも、脳とこころの謎を解明しそのさまざまな問題の解決に貢献できるよう、日々尽力しています。」
「精神医学はいま、大きく変わりつつある」という三村教授。何がどのように変化しているのか、三村教授の専門である「神経心理学」の領域から解説してもらいました。
「精神医学には、精神薬理学、精神病理学、神経心理学といったさまざまな領域がありますが、いずれも、脳とこころの関係、あるいは脳と行動の関係について仮説を立て検証する学問といえます。そのなかで神経心理学というのは元々、脳のどこが損傷すると心理や行動にどんな影響が出るのかという、脳の機能局在を研究する学問でした。例えば、海馬が傷つくと記憶障害が出てくる、前頭葉が障害されると判断力・問題解決能力が落ちるといったことです。」
この分野は従来、動物を用いた基礎研究のほか、患者の臨床観察を重ねることによって発展してきました。
「19世紀アメリカのフィニアス・ゲージがよく知られた例だと思いますが、彼は発破の際の事故で太い鉄棒が前頭葉を貫き、数年後に行動異常が出てきた患者です。このように頭部外傷を受けて行動が変容した人や、脳卒中のような病気になった人を調査・分析することで、神経心理学はその知見を得てきたのです。」
その後、臨床症状を客観的に評価する方法も開発されてきましたが、病態メカニズムの十分な解明には至っておらず、「科学的な根拠に基づいていない」と見られることもあったといいます。ところが1990年代に入ると、その方法論は急展開を見せます。
「MRIや脳血流SPECT、PETなどを用いた画像研究の発展により、剖検しなくても、患者の生体内で脳の構造や機能、精神現象との関連を見ることができるようになってきたのです。これにより、神経心理学の研究対象は、局在性の脳損傷だけでなく認知症を含めたあらゆる精神症状へ、さらに健常者の脳機能へと、大きく広がることとなりました。」
生体脳の構造や機能を可視化できる時代へ──。研究手法の革新により、慶應義塾大学医学部 精神・神経科学教室ではすでに、根本的な病態の解明につながるさまざまな成果を上げています。
2016年には、量子科学技術研究開発機構との共同研究により、うつ病発症に関わる神経伝達機能の異常を発見しました。
「うつ病の原因にノルアドレナリンが関与していることは示唆されていましたが、実際に患者さんの脳内でどのような変化が起きているのか、それまでわかっていなかったのです。脳内のノルアドレナリントランスポーター(NAT)に結合する薬剤を用いてPET計測を行なった結果、うつ病患者では視床のNAT密度が高く、注意・覚醒機能の高まりと相関していることを発見しました。今後、抗うつ薬の効果的な選択や新たな薬剤開発につながることが期待できます。」
また2020年には、横浜市立大学他との共同研究により、脳の働きを支えるAMPA受容体を生体脳で可視化することに成功しました。
「脳の神経伝達において非常に重要な役割を果たすAMPAは、生体脳でビジュアル化することがこれまでできていませんでした。今後、統合失調症やうつ病、双極性障害、認知症、てんかん、依存症などの患者さんのAMPA-PET撮像結果から、AMPAの変化の特徴を読み取ることができるようになれば、診断・治療法の開発が格段に進むでしょう。」
さらに、同じく2020年、量子科学技術研究開発機構との共同研究により、老年期うつ病を引き起こす可能性のある異常タンパクの可視化に成功しました。
「老年期のうつ病や妄想性障害はこれまで、内因性、いわゆる原因不明とされてきました。今回、一部の老年期うつ病患者の脳内でタウタンパク質が蓄積していることが明らかになり、こうした精神疾患の要因であるという可能性が示されたのです。今後は、タウ蓄積量を指標にした客観的な診断や治療薬の開発が期待されます。」
ほかにも、アルツハイマー病の患者の脳内に蓄積するアミロイドを血液やMRIで計測する研究、意欲障害の原因となる部位の特定など、有望な研究成果は多数。
「2010年からの10年は、A decade for psychiatric disorders(精神障害の10年)といわれ、その全容解明に大きな期待が寄せられてきました。2021年のいま、残念ながら全容の解明には至っていませんが、飛躍的な進歩を遂げつつあることは間違いないと思います。」
画像診断やその解析が進化する一方、臨床の現場では「変わらずに守り続けるもの」もあるといいます。
「うつ病の患者さんが10人いれば、10人の状態は皆それぞれ異なります。目の前の患者さんを観察し、訴えに耳を傾け、対応を考えること。この『精神症候学』は、あらゆる精神医学の根幹をなすものであり、ここを重んじる姿勢は今後も変わることはありません。」
このような伝統的な手法を守りつつ、最先端の手法をも活用していけることが、慶應の精神・神経科学教室の強みといえるでしょう。
「通常は見極めの難しいうつ病と双極性障害を早期に診断する画像解析システムや、10分程度の会話から認知症の診断を支援する言語系AI医療機器などは、すでに臨床での実用化に向けて準備が進められています。」
伝統と革新の融合、そして基礎と臨床の連携により発展してきた精神・神経科学教室。
「我々の教室には多くの研究室があり、手法もそれぞれ異なりますが、目指しているゴールは同じです。それは、脳と心の現象を解明し、科学的なエビデンスに基づいた診断・治療・予防を行うこと。そのために、研究室の垣根を越えて互いの研究会に参加し、議論を交わすこともしばしば。一つの山の頂を目指して、各々の研究室が違うルートから登っているといった感じですね。」
慶應義塾大学病院ではいま、精神・神経科を含めた全科的なプロジェクトとして、AI(人口知能)の本格実装に向けた取り組みが進んでいます。内閣府の「戦略的イノベーション創造プログラムAI(人工知能)ホスピタルによる高度診断・治療システム」プロジェクトに選定されたのをきっかけに、医療画像の解析や、医療ビッグデータの活用をはじめとする、さまざまな事業が展開されているのです。
その一つ、三村教授らが中心となって開発した電動車いす型の自動運転システムは、すでに昨年から本格的な運用が始まっています。
「私はライフワークの一つとして、高齢者や認知症の人の自動車運転の問題に取り組んできました。病院内でも歩行困難な患者さんや高齢者の方が移動に苦労されているため、例えば採血室から診察室まで自動で運転してくれるようなパーソナルモビリティがあれば、と考えたのです。これは患者さんの安全・安心につながるだけでなく、病院スタッフの負担軽減にもつながります。今後もさらに広げていく予定です。」
ほかに、睡眠深度を推定できるベッドセンサーの導入に向けたプロジェクトも進行中。
「これはベッドの脚につけたセンサーで心拍・呼吸の変動を取得し、どのくらい眠れているかという睡眠深度を推定するもの。不眠症や認知症の患者さんの病状把握、薬の効果の測定にも役立つでしょうし、手術後などに生じるせん妄の予測・診断にもつながる可能性があります。」
さらに、院内の所定の箇所に薬剤を搬送するロボット、人の滞留状況を数値化し混在緩和の情報収集をするAIカメラの導入など、院内の効率化を図る取り組みも進められています。
「慶應病院での実証実験が今後、全国あるいは世界中の病院・施設がより良い医療サービスを提供していくための一助となればと思っています。」
研究者、臨床医として多忙を極めながら、認知・身体機能の観点から自動車運転等の問題を考える「日本安全運転・医療研究会」、長寿や加齢によって発生する経済課題を研究する「ファイナンシャル・ジェロントロジー研究センター」など、多方面でその専門性を発揮している三村教授。
自身の経験を踏まえ、若い医師や研究者に対し「文理問わず、教養を深めてほしい」とアドバイスを送ります。
「例えば、ファイナンシャル・ジェロントロジーは経済や法と密接に関わる領域ですし、AIホスピタル事業の自動運転システムやベッドセンサーのプロジェクトは、理工学部や環境情報学部の研究者と取り組んでいます。多様な領域の知識や関心が、このような協働には不可欠です。また特に精神・神経科では、社会の出来事、思想や哲学など、医師が幅広く物事を知らなければ、患者さんとのやり取りからその考えを深く理解することはできないでしょう。」
実は若かりし頃、東京大学文科三類に入学したものの、再度受験をして慶應医学部に進学したという三村教授。「国際関係論や科学哲学などを幅広く学んでいくうちに、次第に心理学へと興味が移り、やがて精神科の医師になろうと心を決めたのです」。精神・神経科学教室ではいま、同じように文系から転身した研究者も多数活躍しているそうです。
2021年、創設100周年を迎えた慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室。今年6月には、『これまでの100年』『これからの100年』と題した記念シンポジウムをオンラインで開催しました。
「これまでの100年を振り返って改めて、ここ20年、特にここ10年の間に、精神医学が加速度的に進歩していることを実感しました。精神科が開設された1921年当時は、脳内をMRIで調べる、AIが機械学習で脳データを処理する、などという今日の状況は想像すらできなかったでしょう。そう考えると、100年後の精神医学もまた、いまの私たちの想像を遥かに超えるものだろうと思います。そもそも精神科はないかもしれないし、あるいはあらゆる科が精神科のような要素を持ち合わせるようになるかもしれません」
では、そんな「これからの100年」に向けて、意気込みとメッセージを。
「若い世代の皆さんには、いまの常識を覆すような研究に果敢に取り組んでほしいと思っています。慶應には、文理の隔てなく物事を探究し人間や世界を理解しようとする精神、そして、多職種が学際的にいつでもつながれる風土があります。皆さんには多くの人との出逢いを大切に、常に幅広い学びを続けてほしい。そして私自身も、『半学半教』の精神を胸に、世界中の人が長く幸せに生きていくための精神医学を追究し続けていきたいと思っています。」
三村 將(みむら まさる)
1984年慶應義塾大学医学部卒業。慶應義塾大学医学部精神・神経科学、ボストン大学医学部行動神経学部門、東京歯科大学市川総合病院、昭和大学医学部を経て、2011年より、慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室教授。現在、慶應義塾大学病院副病院長、慶應義塾大学ストレス研究センターセンター長を兼任。日本高次脳機能障害学会理事長、日本うつ病学会理事長、日本老年精神医学会副理事長、本年の日本神経心理学会会長などを務める。
※所属・職名等は取材時のものです。