2022/09/27
生活習慣の乱れが「肥満」を引き起こし、やがて「食後高血糖」「血圧上昇」「脂質異常」、いわゆるメタボリックシンドロームが起こる。その後もドミノ倒しのように「動脈硬化」が進み、「糖尿病」が起こり、さらに「腎臓病」「脳卒中」「心不全」「認知症」などが引き起こされる──。
これが、伊藤裕教授が2003年に世界で初めて提唱した「メタボリックドミノ」の考え方です。いまでは一般的な「メタボリックシンドローム」の診断基準ができたのは、その2年後のことでした。
「メタボリックドミノが新たに示した概念の一つが、『病気の重積』です。当時は、高血圧と糖尿病を両方持っている人が多いようだ、とようやくわかってきた頃。それは偶然などではなく、最初の駒“肥満”から引き起こされる病気が重積することで、ドミノの中流・下流の病気の発症リスクが高くなるということです。もう一つが、『時間』の概念。最初は一個ずつ倒れる駒も、放置するといくつか同時に倒れるようになり、その後は止めることができないほどに広がっていきます。最近は予防医学や先制医療の考え方も一般的になりましたが、要するに駒が倒れる=病気になる前の段階から介入すればドミノ倒しは止められる、ということです。」
メタボリックドミノの提唱からまもなく20年。この間に、メタボリックドミノの多くの病気に合併するとして、「がん」や「サルコペニア」の駒も追加されています。また2016年には、「肥満」のさらに上流に「腸の炎症」があることを示しました。
「マウスによる実験では、高脂肪食を継続して取ることで腸に炎症が起こること、さらに腸の炎症を抑制することで血糖値の急激な上昇もインスリン抵抗性も起こらなくなることがわかりました。つまり『メタボは腸の炎症から始まる』ということが明らかになったわけです。」
少しずつ改変を重ねながら進化してきた「メタボリックドミノ」。その「集大成」と伊藤教授が位置付けるのが、2022年に論文を発表したばかりの「Greedy(貪欲な)Organs(臓器)仮説」です。
「これは、腸と腎臓という二つの臓器の“貪欲さ”が、メタボリックドミノ倒しを進め、さまざまな病気を引き起こすという考え方です。ちなみにこの仮説はGreedy Guts(食いしん坊)をもじって名付けました。」
伊藤教授が注目した「腸」と「腎臓」はどちらも、生きるうえで最も重要な「吸収」の働きを担う臓器です。「腎臓は排泄のイメージが強いかもしれませんが、実は原尿(尿のもと)の99%以上を再利用すべく体に取り込んでいる『吸収』の臓器なんです。」
腸と腎臓がとくに“貪欲に”吸収しようとするのは、エネルギーを作る「糖分」と、酸素や栄養素を体の隅々まで運ぶ血圧を作るための「塩分」。そして、糖分と塩分を効率的に吸収するためのトランスポーター、いわゆる“運び屋”が「SGLT(ナトリウム糖共輸送体)」です。
2014年には、腎臓で働くSGLT2を抑制し尿に漏れ出た糖分の再吸収を抑える薬「SGLT2阻害剤」が登場しました。「私も含め多くの人はたいして期待していなかったのですが、投与すると血糖値が大きく下がった。非常に驚きました。さらに、糖尿病に効くばかりでなく、抗肥満、腎臓病、心不全の回復、そして生命予後そのものにも影響があることがわかり、医学界は騒然としたものです。SGLT2阻害剤はいま最も注目されている薬であり、糖尿病以外の疾患、例えば腎臓病でも認可されつつあります。」
糖分・塩分を過剰に取り続けると、 “あればあるだけ取り込もう”とする貪欲な臓器・腸と腎臓には過度な負担がかかる。それが糖尿病や高血圧、腎臓病、心不全、がんといった病気につながっていく。さらに、腸と腎臓の貪欲さにストップをかけることが、メタボリックドミノ全体に大きな影響を及ぼす──。これが「メタボリックドミノ」から約20年の時を経て発表された「貪欲な臓器仮説」です。
メタボリックドミノは、抗加齢(アンチエイジング)の分野とも密接な関わりがあります。「そもそもメタボリックドミノは、諸臓器のミトコンドリアの機能異常によるものと考えられます。つまり、ミトコンドリアを元気にすることが健康長寿につながるということです。」
2000年には、ミトコンドリアの働きをコントロールしインスリンの効き目を調節する「サーチュイン」がマサチューセッツ工科大学で発見され、“不老”の物質と世間の話題も集めました。さらに近年、そのサーチュインを活性化する抗加齢物質NMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)を多くの企業が製造し始め、広く注目されています。
「慶應では2016年から世界で初めて人に投与していますが、臓器全般の老化を遅延させる可能性があり、非常に優秀との感触を持っています。ただし、市場に出回っているNMNは玉石混交ですが。」
では、抗加齢医学はこの先どのように進展していくのでしょうか。「NMN投与をはじめとするアンチエイジングが “体にいいものを取り入れる”という考え方であるのに対して、いまは“悪くなったものを体から取り除く”という考え方も出てきています。老化は損傷した細胞の影響で進むのだからその細胞を取り除けば若返るだろう、という発想ですね。実際にアメリカではセノリシス(Senolysis)、つまり老化細胞除去を目指した薬剤も出ており、かなりいい成績の報告も出ています。老化は病気であって治療可能、という昨今話題の論調もこうした考えによるものです。」
ただし、伊藤教授はこの考え方にはやや否定的です。「老化で体全体が弱っているわけですから、悪い細胞だけ入れ替えて若返らせるという方法では行き詰まりがくると思います。従来のやり方、つまり細胞をなるべく活性化しつつ、傷んできたらそこを補うというのが正攻法ではないかなと思う。そういった意味でも、実は『抗加齢』=加齢に『抗(あらが)う』という言葉は個人的には違和感があります。抗うのではなく、進行をスローダウンさせるという方がしっくりきますね。」
そんな伊藤教授が近年提唱しているのが、「幸福寿命」という概念です。これは「健康寿命」、すなわち、健康上の問題がなく日常生活に制限なく暮らせる期間とは異なるものです。
「例えば、難治性のがんに侵されてもはつらつと生きる人はいます。むしろ、日々をより大事にしたり、周りへの感謝の思いを持ったり。逆に、体調にはあまり問題がないのに不平不満ばかりという人もいる。そうしたさまざまな患者さんの姿を見てきて、健康状態や介護度より大事なことがあるように思いました。それは、『幸福を感じ、意欲を持って生きているか』ということ。そんなふうに過ごせる『幸福寿命』を皆が長く享受するために何ができるか、医学的・科学的な観点で考え続けていきたいと思っています。」
伊藤教授の率いる腎臓・内分泌・代謝内科。ここには糖尿病や高血圧、内分泌の専門医がおり、生活習慣病やメタボリックシンドロームはもちろん、脳の視床下部や下垂体、甲状腺、副甲状腺、副腎、性腺などに関する特殊な内分泌の病気も診療することができます。これだけの領域をカバーできる臨床の内科は、いま国内でほとんどないそうです。
「メタボリックドミノからもわかるように、腎臓と糖尿病、内分泌は深く関係しますから、各領域で分断せず一つの科として対応できる点で、非常に当を得た体制だと思っています。」
「全身を診る内科医への挑戦」。これは、腎臓・内分泌・代謝内科がスローガンとして打ち出している教室の方針です。「実際、ここで扱う疾患群はがんを含め非常に広範囲にわたります。もちろん、消化器の病気が見つかれば消化器内科の先生を紹介するし、神経の病気があれば神経内科を案内しますが、私たちが目指すのは、ライフロングケアかつトータルケア。患者さんにとってのハブになる医師であることなんです。」
それは例えば、変化を見逃さないこと。「『どうですか?』『大丈夫、変わりないです』『じゃあ、お薬出しますね』という何気ないやりとりのなかでも、我々は顔色や表情を注意深く診ている。それを何年も続けるから、小さな変化も見逃さず気づくことができるんです。」
そして、患者のすべてを受け入れるということ。「『この前から手に発疹があるんです』『最近咳が止まらないんです』など、どんなことも我々に聞いてくる患者さんもいますが(笑)、患者さんの体に起こることをすべて把握する、というつもりで臨んでいます。」
「いずれも適切に対処するには広範な知識や経験が必要であり、正直なところ負荷も大きいですが、患者さんと一生付き合っていくという覚悟と意欲のある先生たちが集まってくれていますから、頼もしいですよ。」
一方、伊藤教授は、新書の出版やYouTube出演など、一般向けの情報発信にも積極的です。
「関西人はね、人を喜ばせたい、笑顔にしたいと、本能的に思っているんです。生まれた時から思ってるんちゃうかな(笑)。私も患者さんの笑顔が見たくて、医者をやっているようなものです。そしてその対象は患者さんだけに限らない。広く一般の人たちにもわかりやすく情報発信することで喜んでもらえたらうれしいんです。」
最後に、これから医学部を目指す人たちに向けて、メッセージをいただきました。
「自分にはどんな可能性があるのか、いまは不安に思うかもしれません。でも意欲ある人間にとって慶應は間違いなくチャンスにあふれた場です。社会に役立つものを生み出そうとする風土があり、それができる環境があり、熱意ある先生や学生との出会いがある。未知への挑戦も楽しみながら、若いみなさんが存分に力を発揮してくれることを願っています。」
伊藤 裕(いとう ひろし)
1983年、京都大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。米ハーバード大学および米スタンフォード大学医学部博士研究員、京都大学大学院医学研究科助教授などを経て、2006年、慶應義塾大学医学部内科学(腎臓・内分泌・代謝)教授に。専門は内分泌学、高血圧、糖尿病、抗加齢医学。『いい肥満、悪い肥満』『「超・長寿」の秘密』『幸福寿命』『臓器の時間』など、著書多数。
※所属・職名等は取材時のものです。