2022/12/29
学生時代、将来の医師人生に思いを馳せた金井教授は、医師として自分の生きた証を残したいと考えていました。
「それには自分にしかできないこと、何かを創造する仕事がしたいと考えました。そこで当初目指していた臨床医ではなく、患者さんに近いところで研究ができればと思うようになったのです。しかし人生はとても長く、これから何十年も研究していくということを考えると先の見えない不安を感じました。」
絶対に朽ち果てない基盤のようなもの、ずっと研究を続けられる根拠のようなものが欲しいと考えた金井教授が自然に行き着いたのが「病理医」でした。
「病理学とは『病の理 (ことわり)を顕す (あらわす)学問』で、顕微鏡でヒトの組織の形態を観察する形態学を基盤としています。目で見て、視覚情報を集約して組織の形態を捉えます。ですから病理学の学生実習では、実際に自分の目で顕微鏡を見て、詳細に組織を観察して色鉛筆でスケッチしたりすることも重要になります。」
金井教授は、顕微鏡写真を集めた組織学の教科書を眺めたり、顕微鏡を見たりすることが好きな学生だったと言います。
「組織には形態があり、そこに機能が宿っていますから、決して無目的には配列せず、秩序だって並んでいます。それは思わず顕微鏡に見入ってしまうほどの美しさです。逆に、組織が美しいのは機能がここにしか宿ることができないためだと考えると、それを扱う形態学を基盤にしていれば、これから研究を何十年続けたとしても、よって立つ基盤を失わずにすむのではないかと考えました。」
20歳で予見した通り、病理学は金井教授の一生のフィールドとなりました。
病理学に進む場合、大学院に進み研究を行うことと専門医研修を受けることは、通常同時進行で行われるようになっています。
「医学の中でもこれはほぼ病理学だけの特徴ですが、一般的にあまり理解されていないように思います。そもそも顕微鏡による観察を基盤とする病理学者には、研究を行う研究者としての側面と、患者さんの検体の診断を行う病理専門医・病理診断医(臨床医)としての側面、つまり二面性があるのです。臨床医と研究者では双方の立ち位置があるため、人の2倍仕事しなくてはならなかったり、時には両方から理解されなかったりすることもあります。」
しかし、研究と臨床を同時に行えるところこそ病理学の醍醐味があると金井教授は考えています。
「病院と研究室をつなぐ渡り廊下のような場所に本拠地があるのは難しい立ち位置ではありますが、両方を行っていくことが理想だと考えています。臨床医として患者さんの診療だけを目的に顕微鏡を見るというより、診療という現場で一生懸命診断を行う臨床医の発想で研究を行ったり、逆に患者さんの診断の際に研究者のサイエンティフィックな目で判断しながら診断したりすることができる、それが病理学者の真骨頂ではないかと。要は、研究を基盤として診断したり、診断を基盤として研究したりできるわけです。両方を同時に行うことで、1+1を3以上にすることができると考えていますし、私の研究室には、この考えに共鳴した大学院生が集まっています。病理の道に進むには、最初に病理解剖を1人で執刀できるようになるだけでも大変で、病理専門医試験も、病院ですでに独り立ちして勤務している医師ですら落第することもあるほど厳しい試験です。ですから大学院生たちはそれなりに苦労していると思いますが、それでも研究も臨床も両方やりたいと考える学生たちが集まっているのは喜ばしい限りです。」
「DNAのメチル化というのは『エピゲノム修飾』と呼ばれる事象のひとつです。ゲノムにささやかな飾りがつくようなもののため、発がんの主役になるようなことはないだろうと考えられていて、あまり重要視されていませんでした。当時はがんが遺伝子変異で生じるという考えが席巻していて、DNAのメチル化を研究している人はとても少なく、研究成果を積み重ねることによって、『本当なの?』というような懐疑的な見方を覆す必要がありました。」
細胞接着の研究チームでの仕事をひと通り経験して30代半ばになっていた金井教授は、独立して研究すべき時期にさしかかっていました。E-カドヘリンがDNAのメチル化で不活化されることを発見したのは、まさにそうした時期でした。
E-カドヘリンという細胞接着因子は、がんをバラバラにしないという性質上、がん抑制遺伝子としての側面を持っています。そのE-カドヘリンがDNAのメチル化で不活化すると金井教授らが発表した当時、がん抑制遺伝子がメチル化で不活化するのはきわめて例外的な事象と捉えられていました。
「稀であったため、あまり意味のないことなのではないかと言われていたほどでした。発がんのメカニズムとして、染色体上の同じ位置にある対になったがん抑制遺伝子の両方が不活化されて初めてがんになるという2ヒットセオリーが提唱されていましたが、不活化するのは、①ゲノムの一部が失われること、②遺伝子変異―という2つの条件がそろった場合だけと考えられていました。ところが、私たちがDNAのメチル化によるE-カドヘリンの不活化を証明したことによって、これが普遍的な事象であり、従来考えられていた遺伝子変異でなくても、DNAメチル化によってがん抑制遺伝子が不活化し、2ヒットセオリーが成立することを示すことができました。」
一方で、がんが生じる前の段階も日ごろから顕微鏡で観察していた金井教授は、がんを予防したり治療したりするためには、発がんの早期に何が起きているかを知ることが重要ではないかと考えていました。
「遺伝子変異はさほど早くから起きているわけではないので、それに先行するメカニズムは何かと考えると、やはりDNAメチル化修飾が浮かんできました。DNAメチル化が異常をきたすと、クロマチン構造と呼ばれるものが変化し染色体不安定性を生じるとも言われていて、論理的にも説明がつきました。私たちは顕微鏡を見ていますから、DNAのメチル化で微小環境が大きく変化することや、がん細胞が環境に応じて接着したりバラバラになったりする様子をつぶさに観察していました。他臓器に浸潤し、遠隔転移する時には、血流や周囲の細胞といった『敵』の間をすり抜けなくてはならないので、がん細胞はバラバラになって動き回っています。ところが遠隔臓器に行って勢力を拡大するというときには、個々の兵隊がバラバラではなかなか勢力を拡大できないため、結局『隣の人と協力したほうがいい』ということで、もう1回隣の細胞と手をつなぎ、接着するのです。
メチル化修飾のように、DNAの塩基配列を変えずに細胞が遺伝子の働きを制御する仕組みをエピジェネティクスと呼びますが、世間は注目していないけれどもきっとこのエピジェネティクスこそ発がんにおいて重要なのだと執念深く研究を続けました。私たちは当時から肝がんを研究対象にしていたのですが、肝がんの前がん段階である慢性肝炎や肝硬変で、がんになれば欠失が観察されるような染色体部位に、DNAメチル化異常が先行して起こっているということを、ヒトの検体を使って直接証明できたことは大きかったと思います。」
こうして金井教授は前がん段階でDNAメチル化異常が起こるということを世界で初めて報告し、がん研究を大きく前進させました。今日では、ほとんどのがん抑制遺伝子がDNAメチル化で不活化されることが知られています。
「基本的には、ここが私の独立した研究者としての出発点だと考えています。」
現在、金井教授らは、長年研究してきたメチル化を発がんリスク診断等に応用する研究を進めています。
金井 弥栄(かない やえ)
1989年慶應義塾大学医学部を卒業。1993年同大学大学院医学研究科博士課程 (病理系病理学専攻)を修了し、国立がんセンター研究所病理部研究員となる。2002年国立がんセンター研究所病理部長を経て、2010年 国立がん研究センター研究所分子病理分野長ならびに国立がん研究センター研究所副所長(~2014年)を兼任。2015年慶應義塾大学医学部病理学教室教授に就任し、現在に至る。2021年より慶應義塾大学医学部副医学部長。
※所属・職名等は取材時のものです。