2022/08/19
「ポリクリで眼科を回ったときに見学した、白内障の手術があまりに美しかったから」──。眼科医を志した理由は、という問いに対する根岸一乃教授の答えは、少々意外なものでした。
「白やこげ茶色に濁ってしまった水晶体を人工のレンズに置き換えると、キラキラと透き通った本当に綺麗な眼になるんです。そして手術翌日には、眼帯を外した患者さんが涙を流して喜んでくれる。術者でもない研修医にまで手を差し出して、『見えるようになりました、ありがとうございます』って。美しい手術をできるうえ、患者さんをこんなにも幸せにできるということに魅力を感じ、眼科へ進むことに決めました。」
実はもともと数学や物理が好きで、医学部ではなく工学部でロボットなどの機器開発を行おうと考えていたという根岸教授。ところが、
「身内で非常に若くして亡くなった者がいまして、それに大変なショックを受け、こういうことがあってはならない、こういう人たちを助けられる医師になろうと決心しました。」
そこで、急遽進路変更し、慶應医学部に進学。
「もともと手術に興味があり、入学時から外科系を志望していました。最終学年のころには、当時は少なかった女性医師の必要性を感じた産婦人科、子供のころから「見える」という感覚の不思議さを感じ、眼そのものに興味のあったことから眼科、また、子供がかわいいので子供の役に立ちたいという理由で(内科系ではあるものの)小児科などを候補として考え、ポリクリ(臨床実習)をしていました。」。そんなときに出会ったのが、眼科の「美しい」手術だったのです。
紆余曲折を経てたどり着いた、眼科医としての道。根岸教授は以後30年以上にわたって、白内障をはじめとする水晶体疾患や屈折矯正手術の診療・教育・研究に邁進。年間約900件もの手術を執刀するなど眼科医療の最前線でキャリアを重ね、昨春より慶應の眼科学教室を率いることとなりました。
慶應の眼科学教室にはいま、 医師・大学院生・研究員・非常勤教職員あわせて約150名、関連病院勤務者を含めると200名が在籍し、日夜、診療や教育・研究に励んでいます。
各研究グループでは、臨床を目前に控え期待が高まる「遺伝性網膜疾患に対する遺伝子治療」、iPS細胞を使った「角膜の再生医療」、視機能を解析する「眼光学」など、世界に冠たる先進的なプロジェクトがいくつも進行しています。
なかでも広く注目を集めているのが、いま東アジアを中心に全世界で爆発的に増加している近視に関する研究です。
2021年には、根岸教授らが中心となって「近視総合診療・研究部門」を開設。近視発症・進行抑制から屈折矯正手術、白内障手術までの一貫した部門を作ることで、近視の治療・研究に一層注力できる環境を整備しました。
また、慶應の眼科学教室は、研究のみならず伝統的に臨床に大変力を入れていることでも知られています。
「これまでの慶應がそうであったように、私たちはあらゆる臨床分野に対応できる “最後の砦”であるべきだと考えています。眼科学教室では一時期、専門外来の一部を閉鎖し、角膜やドライアイを中心とする一部の分野に特化した診療を行っていたこともあるのですが、いま再び、ほぼ全領域を網羅する診療体制を整えています。このことは人材育成の点でも大きな意義があると思っています。これからも、眼科学教室では、診療・教育・研究・イノベーションと、あらゆる面から眼科医療に真摯に取り組んでいきます。」
眼科学の多様な研究領域の中でも、ここ20年ほどで飛躍的な進歩を遂げたのが、目の構造や機能を解明する「眼光学」の領域です。
この「眼光学」発展のきっかけとなったのは、なんと「天文学」における技術革新でした。
「地上からの天体観測では、大気の揺らぎのために星が瞬き、望遠鏡で見ると滲んでしまうのが長年の課題でした。そこで生まれたのが、観測装置に光が到達する際にピントが合うよう大気の揺らぎを補正する『補償光学』という技術です。簡単にいうと、とてつもなく解像度のいい望遠鏡が作れるようになったということ。国立天文台ハワイ観測所のすばる望遠鏡には、この補償光学系が利用されています。」
1999年頃からは、この補償光学が生体の顕微鏡観察に応用されるようになり、眼光学の研究は新たなフェーズへ。「例えば、これまでは眼底写真を撮っても大まかな血管しか映らなかったのに、網膜の細胞レベルまで解析できるようになった、というとイメージが湧くでしょうか。」
元来の物理・数学好きも相まって「補償光学を応用した新たな眼光学には、当初から興味を持っていた」という根岸教授。研究が先行していた欧米での学会などにも積極的に参加し、研究を重ねました。その成果はいま、ものが二重に見える、視力はいいのにはっきりと見えないなどといった「見え方の質」の評価や改善、それを解明するための医療機器の開発、そしてサージカルデバイスの改良などに役立てられています。
「眼光学の進歩によって、眼科領域の診断機器は各段によくなりましたし、白内障術後の眼の機能も大きく改善しました。将来的には、加齢に伴って低下した視機能を光学的に回復させる治療、すなわち究極の若返りも可能になるかもしれません。道のりはまだまだ遠いですが、『眼疾患の治療や失明の予防』にとどまらず、こうした『Quality of Visionの追求』に貢献していくことも、私たち眼科医の重要な使命だと考えています。」
人生100年時代ともいわれるこれからの社会で、眼科学に求められる役割はどのように変わっていくのでしょうか。
「人は情報の80〜90%を視覚から得ていますから、視機能の衰えは著しいQOLの低下につながります。また、視機能の低下は、脳血管障害、認知症、骨折・転倒などのリスクと密接に関連していることが知られており、超高齢社会に突入した日本において、健康長寿に直結する眼科医療への期待は、今後ますます高まっていくといえるでしょう。」
根岸教授らは近年、眼疾患が全身の健康やQOLに与える影響についても研究を進めています。
「例えば、白内障の患者さんが睡眠障害を引き起こすケースがあることはよく知られています。本来、ブルーライトを受光することで網膜のOPN4(メラノプシン)を介してメラトニンが分泌され、サーカディアンリズム(概日リズム)が保たれているところ、白内障によって網膜に到達するブルーライトの量が減ることで、このリズムが乱れてしまうのです。白内障の手術によって、視機能の改善はもちろん、こうした睡眠障害の改善やMCI(軽度認知障害)発症リスクの低下も見られることが明らかになっています。」
さらに眼科学教室では、白内障の手術後に歩行速度が上がり運動機能が改善する、患者の主観的幸福感(SHS)を改善する可能性がある、などの調査結果も発表しています。
「眼科医療は、全身の健康にも影響を及ぼす価値ある医療です。眼科医としてはそのことをもっと社会に広く知っていただきたいですし、健康長寿やQOLの向上に十分貢献できるよう、研究・診療体制のさらなる充実をはかっていきたいと思っています。」
これまで、眼科医としてのキャリアの大半を慶應義塾大学病院で重ねてきた根岸教授。医師、研究者、そして教育者として感じる慶應の魅力とはどんなことでしょうか。
「まず、医学部が掲げている『基礎と臨床一体の医学・医療』の理念の通り、基礎医学と臨床医学のどちらも重視し研鑽を続けている先生方が本当に多いことです。教育においても、研究のマインドと能力を備えたフィジシャン・サイエンティストの育成を目指しており、臨床研修の環境も充実しています。そうした風土や環境は、慶應ならではの強みではないでしょうか。」
また、さまざまな経験を経て実感するのは「慶應のネットワーク」の素晴らしさだといいます。
「共同研究をしたい、データを収集したい、人を紹介してほしいなどといった多様な局面で、医学部の三四会や慶應義塾の三田会には大変助けられています。全国はもちろん、海外に行っても現地のネットワークがあり、有形無形のサポートをしてくれるのですから、本当に心強く、ありがたいことです。それに、初対面でも慶應同士だとなんだかあたたかい感じがするのは不思議ですよね。学生時代に意識することはありませんでしたが、こうした『社中協力』の理念もまた、慶應の素晴らしい財産だと思います。」
さらに、医学部管弦楽団の仲間とのつながりは、また格別のものがあるといいます。
「授業に出ず部活ばっかりやっていた私は褒められたものではありませんが(笑)、部活の先輩や後輩、同級生とは、卒業後何年経っても、学生時代と何ら変わらない親しみを感じます。教授会をはじめ仕事の現場でご一緒することも多いので、何かと助けていただいたり、協力しあったり。学生時代の仲間というのは、何にも代え難い大切な存在だなと実感しています。」
最後に、医学の道を志す若い世代に思うことを尋ねると、根岸教授は「うーん……」と少し考えた後、真剣な表情で話してくれました。
「学生の中には、周囲から『成績が良いから医学部に行けば』などと勧められるがままに、あまり深く考えず医学部に入ってくる人が一定数います。結果として、本人の志向と合致すればいいのですが、なかには医学系の科目が本格的に始まってから、自分のやりたいことと全然違う!と気付く人もいます。ですから、まず医学部を受験する段階で、『医師になるモチベーション』が自分には本当にあるのか、よくよく考えてみてください。」
そして、そんな志があってもなお、第一線の医師として働く日々には大変な厳しさが伴う、とも。
「基本的に多忙な仕事ですし、自分の思い通りのスケジュールで動けないことも多々あります。そして何より、絶対に失敗の許されない大変責任の重い仕事です。それに、医学に完成や終わりというものはありませんから、医師は一生勉強です。そういう職業であるということを十分理解してほしい。その覚悟がなければ続かないと思います。」
では、そんな険しい道のりを30年以上も走り続けてきた、根岸教授の原動力とは。
「医師は一生勉強だと言いましたが、それは医学が日進月歩であるからにほかなりません。どんどん進歩するという意味でこれほど面白い分野はないし、一生をかけて価値のある仕事だと心から思います。たしかにとても多忙な毎日ですが、研究でも臨床でも『ここを頑張ることで、もっと患者さんの役に立てるな』と思える。そして患者さんに喜んでもらえると、自分が幸せを感じられる……結局のところ自己満足なのかもしれないですが(笑)。でも本当に、ただ患者さんに喜んでほしい、それだけのために日々頑張っている気がします。」
「ただの職業人としての医師ではなく、研究にも興味をもって取り組み医学の進歩に貢献していきたいと考えるフィジシャン・サイエンティストを目指している人、そして、将来の医学界を牽引していくのだという高い志を持った人に、ぜひ慶應医学部に入って来てほしいと思います。お待ちしています。」
根岸 一乃(ねぎし かずの)
1988年、慶應義塾大学医学部卒業。国立東京第二病院、国立埼玉病院眼科医長、東京電力病院眼科科長等を経て、2001年、慶應義塾大学眼科学教室専任講師、07年同准教授。17年より同教授。21年4月、慶應義塾大学医学部眼科学教室教授・教室主任に就任。専門は、白内障・屈折矯正手術、眼光学。数多くの要職を経て、現在日本眼科学会評議員、日本白内障学会評議員、日本眼光学学会副理事長、日本老視学会理事長。
※所属・職名等は取材時のものです。