2021/03/09
日本人の約2分の1が罹患し、また、死因の約3分の1を占めるとされるがん。特にその再発・転移はがん治療の最大の障壁であり、多くの患者を苦しめています。難治性がんの根治を目指し、再発・転移を引き起こす「がん幹細胞」の研究に挑む、慶應義塾大学医学部先端医科学研究所の佐谷秀行教授に話を聞きました。
「ブラック・ジャックのような名医に憧れて、僕は脳神経外科医になりました。しかしやがて、悪性脳腫瘍という壁にぶつかりました。腫瘍をしっかり切除しても数カ月後には再発し、患者さんは次々と命を落としてしまう。外科治療の限界を感じました。なんとかして救う方法を見つけたいと、臨床医をやめて基礎研究の道に入ったのです。」
難治性がんを根治する、新たな治療法を確立したい──。そんな佐谷教授の研究の転機となったのが、90年代後半に明らかになった「がん幹細胞」の存在でした。
「従来、がん細胞は同じ性質の細胞の集合体であり、それが増殖を繰り返していると考えられていました。ところが、がんには大もとになる細胞『がん幹細胞』があり、それが自己複製したり分化したりしてがん組織を構成していることが分かったのです。例えるなら、がん幹細胞は“女王蜂”。それが、多くの“働き蜂”(=非がん幹細胞)を作りだし、増殖していたというわけです。」
また、がん幹細胞は、非がん幹細胞に比べて増殖の速度が遅く、治療抵抗性が非常に高いという特徴も明らかになりました。
「放射線治療や抗がん剤治療によって腫瘍が小さくなったように見えても、それは“働き蜂”(=非がん幹細胞)が死滅していただけだったのです。さまざまなストレスに強い“女王蜂”(=がん幹細胞)は生き残り、やがて自己複製や分化を再開する。つまり、がん幹細胞こそが再発・転移の元凶だった。この発見は、がん治療の概念が根本から変わった、ひとつの転換点であったと思います。」
がんの大もと「がん幹細胞」を標的とした治療法。その研究において佐谷教授が注目したのは「CD44v」という分子でした。「長年の積み重ねと偶然が重なった」と語るその研究成果とは。
「この分子との出会いは、大学院生の頃に遡ります。当時、がんを特異的に染める抗体の研究をしていたところ、ある分子に対する抗体ががんをきれいに染め上げた。それが『CD44』でした。このCD44はがんにとって非常に重要なのだろうと漠然と思いました。でも当時は、それ以上のことは全く分からなかったのです。」
1988年には、世界有数のがん研究拠点「テキサス大学 M.D.アンダーソンがんセンター」へ移籍し、さらなる研究に打ち込みます。
「ここで僕らは、CD44の中でも『CD44v』という元のCD44分子が変化した分子を発見します。正常な組織にはほぼ見られないこの『CD44v』が、悪性度の高いがんに発現していることを見つけたのです。ただしこの時も、悪性度とCD44vがなぜ関連するのかは分からなかった。その謎はずっと僕の頭の中にありました。」
それから約10年。あるとき佐谷教授は、スタンフォード大学の研究チームの論文を偶然目にします。 それは、「CD44ががん幹細胞に発現している」ことを示すデータでした。
「あっ、そうか!と。すごく悔しかったですね。僕らはずっとCD44の研究をしてきたのに、それががん幹細胞の分子だとなぜ気付けなかったんだろうと……。でもすぐに、CD44は単なる『マーカー』ではないはずだ、次は『機能』を自分たちが解明しよう、と思いを新たにしました。」
その決意どおり、佐谷教授らは2010年、がん幹細胞に発現しているのはCD44vであり、このCD44vが治療抵抗性に関与していることを発見しました。CD44vが細胞膜で形成した「CD44v-xCT複合体」がシスチンというアミノ酸を取り込み、強力な抗酸化物質・グルタチオンを合成していること、そして、大量のグルタチオンが活性酸素を下げるために、放射線や抗がん剤治療の働きを弱めているというメカニズムを突き止めたのです。
「CD44vはがん幹細胞の治療抵抗性の鍵となることをついに証明することができた。これは僕らにとって非常に大きな一歩でした。」
30数年にわたる積み重ねが生んだ、世界初の発見。この快挙はしかし、CD44vの制御手段を開発し臨床試験へとコマを進めるための、新たな闘いの始まりでもありました。
CD44vがシスチンを取り込めなければ、グルタチオンを生成できず、がん幹細胞は退縮するはず──。がん幹細胞の機能を突き止めた佐谷教授は、シスチンの取り込みを阻害する作用をもつ既存薬を徹底的に探します。そして見つけ出したのが「スルファサラジン」。1940年代に開発され、潰瘍性大腸炎やリウマチに使われている薬でした。
2013年には早くも、国立がん研究センター東病院とともに、スルファサラジンを用いた治験を実施。「胃がんの患者さんにスルファサラジンを2週間投与すると、CD44vの細胞は劇的に減少しました。まさに僕らが考えた通りのことが、実際にがん組織で起こったのです」
一方この治験では、腫瘍自体の早期の縮小は見られず、スルファサラジンによるがん幹細胞への治療とともに、増殖能の高い非がん幹細胞に対する治療も同時に行う必要があることが明らかになりました。そこで2017年、今度は九州大学とともに、肺がんの患者に対する治験を実施します。
「手術不能の進行性肺がんの患者さんに、通常の抗がん剤に加えて、スルファサラジンを服薬してもらいました。すると、効果は明らかでした。通常の抗がん剤投与では平均4.3カ月で再発してしまうのに対し、スルファサラジンを併用することでその期間が平均11.7カ月にまで延びた。予後の悪い進行性肺がんにおいては、非常に良好な結果だったといえます。」
スルファサラジンのような既存薬を用いた創薬研究、いわゆる「ドラッグリポジショニング」。今日でこそ一般的な手法であり、COVID-19の治療薬にもエボラ出血熱や関節リウマチの薬の転用が検討されています。しかし、佐谷教授が既存薬の活用を考えたのは、今から20年以上前。ドラッグリポジショニングという言葉すらない時代でした。
「がんの治療薬を作ることは長年の目標でしたが、経験上、大学の研究室で医師が創薬をする難しさは分かっていました。そこで、既に使われている薬の中から、求めている作用を持つ薬剤を探すという方法を考えました。既存薬は、安全性や薬物動態に関するデータがありますから、臨床試験に早く移行できます。Bestではないかもしれないが、Fastestなのは間違いない。患者さんに早く治療薬を届けるためには最も良い方法だと思ったのです。」
当時、熊本大学に在籍していた佐谷教授は、発売されている薬剤を自らの足で集め、「既存薬ライブラリー」を創設。市場に出回っている約3,000種の薬剤のうち、約1,600種を研究室に揃えました。
「集める作業は、結構大変でしたよ。でも20年前に『既存薬ライブラリー』を作り始めて以来、日本中の多くの研究者にお使いいただいていることはうれしく思います。慶應では岡野栄之教授が難病の治療薬開発に我々の既存薬ライブラリーを活用してくれています。」
「臨床の現場に早く治療薬を」という佐谷教授の思いは、ライブラリー構築20年を経た今日も、多くの研究の現場で受け継がれているのです。
長年の研究成果を臨床につなげるまで「あともう一歩」と、手応えを語る佐谷教授。しかし一般的に、基礎研究から臨床応用に進むまでの障壁は、“死の谷”と呼ばれるほど険しいものとされています。
「まず前提として、臨床研究に進むためには、『安全性』と『効果』の面で非常に高いレベルの基礎研究が求められます。ですが、有害事象への対応も含め大学での研究がなかなかそこに達していないという問題があります。また、その高いレベルを担保して研究や開発をするためには、莫大な資金が必要となります。さらに、基礎研究で良い成果が得られたとしても、臨床に持ち込むためにどんなプロセスがあるのか、どんな手続きが必要かを知っている研究者はほぼいません。つまり、基礎と臨床の間を橋渡しする存在が不可欠なのです。」
慶應義塾では、2014年に「慶應義塾大学病院臨床研究推進センター」を開設。基礎研究と臨床の双方に精通した佐谷教授は、2015年から、センター長として同センターを率いてきました。
「臨床研究推進センターでは、基礎研究の優れた成果を臨床現場へ橋渡しする『トランスレーショナル研究』を成功させるために必要なすべてのことを支援しています。例えば、知財戦略の策定、研究資金の獲得支援、省庁との交渉、臨床試験の準備と実施、市場調査、企業等とのマッチングやアライアンス交渉など、慶應だけでなく、周囲の大学や研究組織のシーズもともに支援しています。」
さらに、2017年には、臨床研究推進センターが事務局となり「首都圏ARコンソーシアム(Metropolitan Academic Research Consortium : MARC)」が発足。首都圏の私立医科歯科薬科大学等をはじめとする臨床研究機関が連携・協力する体制を整えました。
「全国各地で、トランスレーショナル研究を支援する組織が徐々に作られてきています。臨床研究推進センターもまだ発展途上の組織ですが、日本・世界から期待される新たな治療を実現させるために、今後も一生懸命取り組んでいきます。」
がん幹細胞の治療抵抗性を高めるCD44v-xCTを抑制する効果が証明された、スルファサラジン。しかし臨床の現場に持ち込むためには、クリアすべき複数の課題が残されていました。
「どんな薬でも、長期間投与すれば細胞はやがて薬に対する抵抗性を持つようになります。難治性がんを根治するには、抵抗性を持った細胞をもあらかじめ迎え撃つ、複合治療を行わなければならないと考えました。」
スルファサラジンに対する抵抗性を獲得した細胞に効く薬はないか。再び既存薬のスクリーニングを行った結果、佐谷教授らは、かつて狭心症の薬剤として用いられていた「オキシフェドリン」を併用することにより、より一層高い効果が得られることを発見します。
「現段階ではまだマウスでの実験ですが、スルファサラジンとオキシフェドリンを併用することで、腫瘍がほとんど大きくならないことが分かりました。がんの研究を長年やってきましたが、この効果には僕たちも非常に自信を持っています。特許切れにより製薬会社の協力を得難いというドラッグリポジショニング特有のデメリットも、配合剤として開発することによって解決の道筋が見えつつあります。時間はかかっていますが、なんとしても臨床試験に持ち込み、臨床の現場で役立つものを作りたい。頑張ります。」
最後に、「若い医師や研究者に伝えたいことは」と尋ねると、佐谷教授は自身が若手研究者だった頃の思い出を語ってくれました。
「1988年から6年間在籍していたM.D.アンダーソンがんセンターでの経験が、僕の研究者としての在り方を形作ったと思います。当時、M.D.アンダーソンでは、センターの『ミッション』(社会使命)と『ビジョン』(自己目標)を作ることになり、スタッフ皆で知恵を絞りました。」
数カ月間をかけてM.D.アンダーソンが策定したミッションは、「患者を含めたセンターに関わるすべての人々の教育を充実し、基礎・臨床の研究成果をもとにしてがんを撲滅する」。そしてビジョンは、「人材と研究成果を基盤にして、世界で第一のがんセンターを目指す」というものでした。
「社会の中でどういう役割を担うのか、そして自分はどうありたいのか、を考える一連の過程は、僕の心に深く響くものがありました。またこの時、スタッフ全員が『自分自身のミッションとビジョンを名札の裏に書きなさい、忘れそうになったらその言葉を見なさい』と命じられました。」
佐谷教授が名札の裏に記したのは、以下の言葉だったそうです。
ミッション:基礎研究から得られた知識に基づいて、がんを治療し、再発と転移を防ぐ
ビジョン:世界で最も先進的ながんの基礎研究から応用研究を行う研究グループを構築する
「このミッションとビジョンを掲げてから30年が経ちましたが、今なお道半ばです。でも目標は高い方がいいですからね。僕は今もこれを常に頭に置いて研究に取り組んでいます。」
最後にもう一つ、と佐谷教授が加えたのが、「コアバリュー」(基本的な価値観)です。
「例えば、治験にご協力いただく患者さんに敬意を持つこと、サンプルや検体をいただく際はきちんと同意を得ること、チームワークを大切にすることなど、人としての基本的な配慮や道徳心にあたる部分です。そういう “重石”を心に持ちつつ険しい山に登るのが、医学・医療という仕事だと思っています。ミッション(社会使命)、ビジョン(自己目標)、そしてコアバリュー(基本的な価値観)。若い皆さんにはぜひこの3つを忘れずに、研鑽を積んでほしいと願っています。」
佐谷 秀行(さや ひでゆき)
1981年神戸大学医学部卒業。神戸大学医学部脳神経外科で臨床に携わる。神戸大学大学院、カリフォルニア大学サンフランシスコ校脳腫瘍研究センターを経て、88年、テキサス大学 M.D.アンダーソンがんセンター神経腫瘍部門Assistant Professorに就任。熊本大学大学院医学薬学研究部腫瘍医学分野教授を経て、07年より、慶應義塾大学医学部先端医科学研究所遺伝子制御研究部門教授。
※所属・職名等は取材時のものです。