2020/10/02
『血液は簡単なんだ。赤血球・白血球・血小板があって、それが増えるか減るか、質が悪くなるかのいずれかだから。』
医学生時代、当時の外山教授が教える明快な血液学に惹かれた岡本名誉教授は、顕微鏡の中に広がる血液細胞の世界に魅了され、血液内科を志しました。当時は形態学で診断をつけることが主流で、急性白血病ではようやく3種類の抗がん剤に副腎皮質ホルモンを組み合わせるCHOP療法が始まったばかり。慢性骨髄性白血病に至っては、診断されれば「死の宣告」を意味していました。
大学院での研究は、幹細胞コロニーの増殖を観察して、解析することが日課でした。しかし研究対象は良性疾患で、実際の患者さんは白血病など悪性疾患の方ばかり。もっと患者さんに直接役立ちたいという思いから、先輩と2人で移植の勉強を始め、1983年に初の移植を経験しました。
「何から何まで初めてで、大騒ぎでした。外気に触れてはいけないと信じられていたため、シーツを縫い合わせて大きな袋を作り、放射線照射のたびに患者さんにその袋に入っていただいて、車椅子で移動させました。骨髄採取も初めての経験で、きちんと採取できているか心配でたまりませんでした。移植後、白血球が増えてきたときの感動はひとしおでしたね。」
こうして患者を治す臨床に惹かれはじめていた1984年のある日、後輩の内科医が、慢性骨髄性白血病と診断されました。
「身近な人が白血病になり、何とか自分たちの手で治したいと強く思いました。この時はじめて、白血病を治せる医師になろうという方向性が見えてきました。」
治療として完治の希望が持てるのは造血幹細胞移植のみ。慶應大学で行いたいと考えていましたが、残念ながら諸条件がまだ整っていませんでした。
「結局、彼は治療を受けるため米国へ出発しました。仲間で寄付を募って必死で渡航・治療費をかき集め、空港では『若き血』を歌って見送りました。」
白血病で苦しむ人を治せたら…そう強く感じた岡本名誉教授は、この時から造血幹細胞移植を究める道を選び、35年余の歳月を過ごしてきました。
赤血球や白血球、血小板などの血液細胞は、骨髄の中にある造血幹細胞が分化したものです。血液のがんは、この造血幹細胞に何らかの異常が生じて起こります。
そこで、異常な造血幹細胞を死滅させて健康な造血幹細胞を移植し、がんの根治を目指す治療が造血幹細胞移植(骨髄移植)です。
「移植の準備(前処置)としては、まず大量の化学療法や放射線治療で異常な造血幹細胞を根絶し、同時に患者の免疫系を破壊する必要があります。免疫系を破壊しておかなければ、移植した造血幹細胞が異物とみなされ攻撃されてしまうからです。」
前処置はたいへん強力なもので、正常な造血幹細胞も全て破壊してしまいます。そこへ患者さん本人またはドナーから採取した正常な造血幹細胞を移植し、定着させなくてはなりません。成功すれば、約2~3週間で白血球などの血球が回復し、3、4ヵ月で免疫系が回復してきます。
「しかし問題はまだあります。移植する造血幹細胞をドナーから採取した場合、その細胞にとって移植先である患者さんの体はやはり『異物』とみなされます。このため定着したドナーの造血幹細胞から生まれたリンパ球が患者さんの正常な臓器や皮膚などを攻撃してしまう『移植片対宿主病』という厄介な免疫疾患が起こります。このほか、前処置などに伴う臓器障害や、免疫抑制剤等の使用で免疫の再構築が遅れる間に起こってくるウイルス感染などにも対処しなくてはなりません。移植とはさまざまな問題を地道にコントロールしてようやく成功できる治療なのです。」
後輩が入院した米国シアトルのフレッド・ハッチンソン癌研究所では、ドン・トーマス(Donnall Thomas)をはじめとする世界的な移植治療のパイオニアたちが最新の移植治療を行っていました。ここで学びたいと考えた岡本名誉教授は、まず米国南部、アトランタのエモリー大学に留学します。
エモリー大学では、1年目に米国で臨床研修を受けるために必要なECFMGの認定を取得し、続く2年間は臨床に出て、生の患者さんたちと触れ合いました。もちろん、移植治療を学ぶためでしたが、治療の引き際に対する考え方にも大いなる学びがありました。
「急性骨髄性白血病の女性患者で、高齢でキロサイトの大量投与なども効かず、治療に難渋した方がいました。次はどういう化学療法を行おうかと考えていると、経験豊富な現場の医師から “Let her die peacefully(安らかに死を迎えさせてあげよう)”、と言われ、初めて治療を『撤退する』という考え方に触れました。当時の日本では、悪い細胞が出てきたら徹底して化学療法を行い、穏やかな死を見たことがありませんでした。ところが、アトランタでは緩和ケアへの移行が実にスムーズでした。」
エモリー大学を経て念願の研究員となったフレッド・ハッチンソン癌研究所では、移植片対宿主病を抑制する効果的な薬物療法などが編み出され、移植治療の歴史が日々塗り替えられていきました。
「世界の若い医師たちがトレーニングを受けては、それぞれの国で新しい移植治療を広めていきました。移植治療は拡大の歴史を歩み始めていました。」
最先端の移植治療に触れ研鑽を積んだ岡本名誉教授は、帰国後、東京大学医科学研究所で最初の移植研究チームを立ち上げました。
医科学研究所は、最後まで闘い抜く攻めの治療が一般的な時代でした。これに対し岡本名誉教授は、エモリー大学での経験から、患者の安らかな死のために治療を撤退することもまた選択肢と考えていました。
「最初はひとりだけ違うことを言う医師がいるぞという感じだったと思います。カンファレンスで喧々諤々の議論になったこともありました。しかし看護師さんたちが私の意見を評価してくれたおかげで、医師の間でも『確かにそういう考え方もある』、という認識が生まれたように思います。チーム全体の雰囲気は次第に変わっていきました。」
1980年代後半以降、造血幹細胞移植ではテクノロジーの進歩が相次ぎます。その結果、以前は最終手段であった移植は疾患の早期段階から行われるようになり、良性疾患に対しても実施されるようになりました。さらに1990年代に入ると、血縁者でなくても遺伝子型が適合すればドナーとして細胞を採取できるようになり、骨髄だけでなく、血液中からの細胞採取や、免疫の中で自己と非自己の識別にかかわるHLA遺伝子のタイピングも可能になります。こうしたテクノロジーの進歩が重なり、造血幹細胞移植の症例は飛躍的に増加しました。
移植治療の増加を背景に、1988年、米国で初めての骨髄バンクが設立し、日本でも設立の機運が高まりました。
「ちょうど医科学研究所に勤め始めた頃でした。患者とドナーをコーディネートする最初の仕組みを作ることを任され、1991年12月に日本骨髄バンクがようやく稼動しはじめました。」
英語が堪能だった岡本名誉教授は、国際対応を一手に引き受けることになります。
「日本に骨髄バンクができたと知るや、在米日系人に適合する骨髄があるだろうということで、早速アメリカからデータをシェアしようというリクエストが届きました。しかし日本のバンクは発足したばかりで、体制が整っていません。そこで『申し訳ありません』とお詫びの手紙を書く役目、要はクレーム係でした。」
当時の日本では移植は50歳までの年齢制限がありましたが、米国は55歳でした。
「50歳を超える患者さんから骨髄を提供してほしいといわれても、規則上、不可能でした。それで断り続けていたのですが、『アメリカでできるのに日本ではなぜダメなのか?』と再三尋ねられました。人の命が救えるときに、『規則ですから』という理由で断るのは、米国では理解しがたいようでした。」
ある時とうとう、55歳の患者さんと医師がはるばる日本まで訪ねてくることがありました。困惑しつつ規則通りに断ったものの、人道的な立場から、岡本名誉教授は最終的にGOサインを出しました。
「すると今度は内部から『なぜルールを曲げるのか』という声が上がり、とても辛かったですね。しかしなにはともあれ、これが日本骨髄バンクの海外提供第1例目となりました。」
こうして一つひとつの地道なやり取りが積み重なり、海外との協力体制が築かれていきました。それは米国でテロが発生した緊急事態においても見事に機能しました。
「2001年9月11日、ニューヨークで恐ろしいテロが起きたときです。日本にはアメリカからの骨髄提供を待つ患者さんが3人いらっしゃいました。夜中の3時に電話機が鳴り、現地が混乱状況にあって輸送が難しい、どうしたものかと現地から連絡が入りました。」
航空管制が敷かれる中で日本にできることは何もなく、待つしかない状況でした。
「しかしアメリカの医師が凄いと思ったことには、何とかチャーター便を用意してくれ、ハワイ・グアム経由で無事骨髄を届けてくれました。この時移植を受けた3人の患者さんは、今もみな元気でいらっしゃいます。移植という治療を巡り、患者、ドナー、骨髄バンク関係者、そして医療関係者がネットワークを形成するシステムとその運営経験は、かけがえのない財産となりました。」
1993年、岡本名誉教授は慶應義塾大学に戻り、血液内科で移植チームを立ち上げました。造血幹細胞移植という新しい治療は日本にしっかり根付き、慢性骨髄性白血病の慢性期治療では第一選択とされるようになっていきました。こうして2000年代半ばには、移植後10年以上が経過する患者さんたちが増加していました。
「この頃クローズアップされてきたのが患者さんやドナーの方々の高齢化問題です。高齢者では、移植の有無にかかわらず、さまざまな病気を合併しているケースも多くなります。さらに、移植後10年、20年と経過した患者さんたちに起こる合併症も注目されるようになりました。特に高齢者の移植片対宿主病は厄介で、年齢が上がるほど移植後の死亡率が上昇してしまいます。
ドナーについても高齢化とともに骨髄の提供率が下がってしまうため、若いドナーをいかに増やし、留まっていただくかが課題となっています。」
移植を受けた患者さんが高齢者になっても、最後まで責任を持つこと。そして価値観が多様化する中で、患者さんたちに何ができるのか、といった問題意識が徐々に広がっていきました。
「病気の状況が最先端の医療に参加できないと分かった時、それは医療から見放されたことにはなりません。問題は、『どのように生きるか』という価値観を皆で認識し共有できるかどうかではないかと思います。逆に言えば、誰しも『さあどうする?』という局面で、『この道を行きます』と言える人生観を培っておく必要があるということになるでしょうか。さらに新たな治療を追い求めるも良し、楽しく生きることを第一にするも良し、です。もっとも私自身はといえば、まだそこまで達観するには難しいかもしれませんが。」
2001年に分子標的薬イマチニブが登場すると、慢性骨髄性白血病には奏功することが明らかになり、多くの症例に用いられるようになりました。しかし現在のところ、造血幹細胞移植は根治の可能性が示された唯一の治療です。
「2010年以降、移植治療は洗練と調和の時代を迎えています。これからの移植治療は、造血幹細胞移植を基盤とした細胞療法や個別化医療へと進んでいくと考えています。」
現在、患者さんの免疫細胞を採取し、遺伝子改変を行ってがん細胞を特異的に認識する受容体を組み込み、増殖させてまた患者さんに戻すCAR-T細胞療法や、がん細胞で起きる遺伝子異常により患者さんひとり一人にそれぞれ特異的に発現するネオアンチゲンと呼ばれる抗原を利用して特注のワクチンを作り、患者さんのがん細胞に対する免疫の攻撃力を強化する治療などが開発されています。また、移植後に抗がん剤の一種シクロフォスファミドを大量投与し、移植片対宿主病を効果的に予防できることも明らかになりました。
造血幹細胞移植は、こうした最新治療と組み合わせることで、治療成績をさらに向上させることが可能になってきています。
「内科学の父と呼ばれたウイリアム・オスラーは『医学はサイエンスであるが、医療はエビデンスに基づいた芸術である』と言いました。今後、造血幹細胞移植は医療としてさらに進化していき、移植治療が廃れることはないでしょう。
移植に限らず、医療とは、名画のジグソーパズルに似ていると常々感じています。どんな医療にも言えることですが、一つひとつのジグソーのピースが全て揃い、ぴったりとかみ合わさっていなければ、肝心の絵は見えてきません。ことに移植医療に必要なのは、一人の名匠(名医)ではなく、チームです。大きく言えば、そこには患者さんやドナーの方、骨髄バンクの職員の方まで、全てが含まれています。」
治療の成功は関わる一人ひとりの名誉であり、チーム力こそ、移植を支える大いなる力だと熱く語る岡本名誉教授の育ててきた血液内科の移植チームは、2020年9月、新たに教授となった片岡圭亮先生に引き継がれました。岡本名誉教授が最終講義で学生たちに贈ったメッセージは、『患者さんのために何ができるか』、『正しいと信じる方向へ前進し続けよ』、『行き詰っても、道は開ける』―でした。
岡本 真一郎(おかもと しんいちろう)
1979年慶應義塾大学医学部卒業。1983年慶應義塾大学大学院医学研究科 博士。85年よりエモリー大学(米国)留学、86年米国医師免許取得、87年より臨床に携わる。89年フレッドハッチンソン癌研究所研究員を経て、慶應義塾大学内科学に復帰。90年東京大学医科学研究所病態薬理学研究部、93年慶應義塾大学医学部血液・リウマチ内科、2002年同准教授、09~20年慶應義塾大学血液内科教授。20年より医学部名誉教授。
※所属・職名等は取材時のものです。